昭和46年01月17日 朝の御理解
御理解 第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
金乃神は昔からある神ぞと。途中から出来た神でなしと。その神様のご威徳というか、ご恩徳というかそれを表す人がいなかったと言う事ですね。天地金乃神は昔からある。天地は流行る事もなからなければ、又終りもないのですけれども、そんなら金光様のご信心を頂いておれば、いうなら、普通で言う流行り神様とこういうね。時には一時的にあっとこう、広がってまた何時消えたかも分からないようにして、消えていくと言った様な事ではなくて。日月の心になる事肝要と仰る。
ここの日月の心になる事肝要だと悟らせてもろうて、ここのところにおかげを頂いていけば、日勝り月勝り年勝りのおかげが受けていかなければならない道理である。所が果たして事実はどう言う事になっておるだろうかね。成程初代の時には飛ぶ鳥も落とすほどしの、ごひれいが輝いたという教会。子になり孫になって段々それこそ閑古鳥が鳴く様に寂しいものになっていくという広前も沢山ありますね。ですからこれは金光教の信心だから天地とともに極まりなく繁盛していくのだと言う事は言えない事になる。
どこんところが間違えばそういう事になっていくのだろうかと言う様な事を今日は極めていきたいと思いますね。これは誰しも同じ事人間である以上皆幸せになりたい。幸せになりたいというても、そのために色々精進をするわけですけれども、ただ自分だけが幸せになる、自分一家だけが幸せになる。そういう私は小さい考えとか小さい信心では必ず日勝り月勝りと言う事にはなってこないとね。
その願いとするところかね、段々いうなら私の願いがね、いうなら合楽の願いがね、そのまま世界真の平和に繋がっていくほどしの願い。私がおかげを受けるという事が自分の周囲もおかげを頂いて行くことに繋がっておるようなおかげね。そういうおかげを願わせてもらう信心でなからなければならないと思う。作日は私四時の御祈念が終わってですから五時ごろ、丁度( ? )頂かせてもらいよるところにある婦人が参拝してきた。久しぶりに参って来たそれで。
宅祭り謝恩祭を執り行いたいからというその事のまあお願に参った。なるほど謝恩祭と言うから一年中例えばおかげを頂いて参りました事の様々なおかげを取り束ねてお礼を申させてもらいしかも、自分のお家お祭りをしておる神様の前でうちの神様の前でお礼を申し上げてくれといういわゆる宅祭りなのです。それで私その方に申しましたことでしたけどね。おかげを頂いて子供達の出来も皆んな良い本当に勿体無いほどにようしてくれる。まあお婆さんお母さん(?)それで(?)おかげを頂いておる。
ところがその、( ? )おばあちゃんだけが身体がとても悪い。毎日マッサージに行ったり、針やら灸やらしにいきよるとこういうね。けれどもまあそれこそ言う事が無いほどしに色々、おかげを頂いておる。金にも不自由しない、家も大きくこの頃新しく建てた。子供達もそれこそよい職についておかげを頂いておると。けれどもね、成程それはおかげのようにあるけれどもね。私はそういうおかげを頂いておるおかげで○○さん、信心が出来ませんと言う事になっておるようだねと私は申しましたね。
おかげで金にも不自由致しませんね、息子達は皆ようできておる。
孫達もようしてくれる。親がまだお婆ちゃんなまあ(?)若いおばあちゃんですけれども、若い、毎日マッサージにも行かせてもらえる身分おかげを頂いておる。成る程、神様にもう一度くらいお礼を申させてもらうお祭りくらいさせてもらわにゃまあ、相済まんという事であるけれども、そういうおかげを頂いておるおかげで信心が出来ません。おかしな話じゃないかとね。
もう今日からお参りあるからもう、朝の寒修行がある事じゃからいっちょ本気でね、なるほど私がマッサージにいくなとか、針灸するなとはいわんけれどもね。折角これほどしの有り難い神様を頂き生きた神様を頂いておるのに、その神様をおかげを向こうに押しやったような、行き方ではもったいないような話しだと。それこそおかげを頂き過ぎておかげで信心が出来ませんと言う事になっておる。
人間はやっぱりその一つの難儀と言った様なものをね、しっかり感じれるそこからやっぱり信心も出来れると言う事になってこなければ、いけないなぁと言うてまあ話した事でした。そこでですねお互いに頂きたいのです。まあいうなら今の言葉でいうならばマイホーム的なおかげを受けておるわけなんです。けれどもそういうおかげを頂いたら途端にですね、日参りも出来なければ月参りすらできなくなっておるね。
信心のいわゆる目指しとするところがですね、成る程この世でおかげを頂いていくという事ではなくて、あの世この世を通してのしかもここに、天地は流行る事もなければ終わるほどしの無いほどのおかげというものが、子供の代より孫の代という繁盛していく一つの土台というかそういう基礎を作るという信心はあるのだと。あなたの信心が子供達にもいうなら、嫁達にも孫達にも伝わってね、いわゆる迷わず失わず信心の道を伝えさせて頂けれるだけの基礎を作らなければならぬ。
それにはね、どうでも一つ信心にならなければならないよというて、勿論信心とは信じる事である。又は真心である。又は神心であるね。そういう信心が段々身に付いてくる。信じる心信心は頂いておるけれども、金光様の信心を頂いておるけれどもさあちょっとどうかあればすぐ、マッサージのほうが効くごと思うておる。なるほどそれがいけないのではないのだけれども、それでは例えばマッサージが良くなったというおかげを頂いたというだけに過ぎんじゃない。ようなった時にはおかげを頂いた時には其の事のおかげで多少なりともより本当なことになってくる。
いうなら人生観までもが変わってくるというほどしのおかげ。暗いトンネルを通らせて頂いてただ、おかげを頂いて明るいところに出ただけではいかん。暗いところを通らせて頂いておるうちに力を受けなければならない、光を受けなければならないね。やはりあの信じる心がないからそういう風に迷わなければならない。と言う様に申しましたのですけれどもね、お互いがやはりおかげを受けなければならない。ところがおかげを受けたらおかげで信心が出来ませんと言う事になったら出来ん。
おかげを頂いたら神恩報謝の心がいよいよ厚くなり今までお願い参りであったのがね、お伺い参りであったのがです、有難いその心がお礼参りをさせてもらえれるという信心に変わっていかなければそれが、私根本のところができていないからだ。あんたのところは親のことは子が頼み、子のことは親が頼むと仰っしゃられます、そういう表面的な事だけでは頼み合いが出来ておるけれども、本当の幸せとか幸福に繋がる頼み合いが出来ていない。と言う様に話したのですけれどもね。
今度の宅祭りを境に真の信心と言う事を言われるが真の信心を身につけていかなければいけないね。昨日の御理解の中に山と川との合言葉という御理解を頂きましたね。同士討ちをせんで済むね、私昨日そのことを申しましてから私皆さんに伝え漏らしておるところがあった。御祈念が終わってから、その事を今先程杉山光男さんがここにお届けに来て、参りましてから私は今お参りしたところ今その事をお話した。ところをあんたが頂かにゃんところじゃったじゃろうと言うて話した事でした。
勿論私は山という事は修行と言う事であろう。いわゆる先日から頂きますようにただでする修行買ってする修行この二つが相まっていかなければならない。信心というのはね。皆さんこうやって朝参りさせていただこうというのは買って出たのである。買ってしてある修行である。ただでする修行というのは天地の働きが様々一人一人の上にある。これはもう千差万別である。嬉しいこともあれば苦しいこともあるそれは天地があなたに求めてある修行だから、それを黙って受けぬいていこうという修行。
これはもう、合楽のいわゆる独壇場といてもよかろう。私はこれ一本でおかげを受けてきておるから。と言った様なお話を昨日しましたね。ですからお互いが段々おかげを頂いていくと言う事の中に、それこそ今こそ、一滴の雫が枯れ木枯れ枝のしたを潜って通っておるような時代もある。谷川に落ちてそして川にそれが大海に注ぐと言う様な順序を辿ってのおかげ。
私は昨日、山と川との合言葉と言う事には山といえば川と言う事になるところに同士討ちをせんですむとこういうね。天地の親神様が私大坪総一郎に下さろうとするおかげがある。それは、昨日の言葉を借りるともうすさまじいまでの働きという事であるね。天地の働きというものはそういうようなすさまじいまでの働き。すさまじいまでの働きを一人一人の氏子の上に現してどうでも氏子信心しておかげを受けてくれよというのが天地の願いであり、親神様の願いであり。
その願いをまともに受けて立たせて頂くという姿勢がここのところで言うと、日月の心になることであろうし、昨日の御理解で言うと、山と川との合言葉も狂いなしに生活をしていこうと言う事なのであるね。いわゆる成り行きを尊び成り行きを大事にさせて頂きながらなおかついわゆる買ってする修行。山の修行。ね、この二つが私共の生活の上に車の両輪のようにこれが、そういう信心生活が出来るところから神様が下さろうとするおかげをねまともに受け止めていく事ができる。
そのおかげはもう、あれよあれよというばかりの、おかげである。それはすさまじいまでの働きを私共の上に、現して下さるのであるね。昨日家内に足をもんでもらいながら、毎日足をもんでもらいます。家内と二人で話したことでありました。世の中には妙な人が色々あるねと。もう不思議で不思議でたまらんごとある。あれほどし分かった人が、あれほど物の道理がわかった人がです、時々妙なことを言うたりするある人があるね。不思議なことじゃと。
お前妙な人じゃったもんねち、言うてから家内と今一人の姉が大阪に降ります。この姉さんがちょいとどこも非の打ち所のない、お前どんと違ったもう何させても出来ん事のないと言った器量を持ちながらなんとはなしにどこか妙な所がある。そういうておれ達夫婦は何も出来んけれども、まあ今日こうやっておかげを頂いておるというて2人で本当に感謝をし合ったわけですけれどもね、けれども本当に信心をさせて頂いておるおかげですと言うて、家内がまあ言われてお互いがから、おかげを頂いた事です。
昨日の御理解はそう言う様に、山と川との合言葉と言う事でしたが、例えば世の中にはね、山川さんという人がありましてね、人が山と言えばさっち、川と言う人があるね。川ち言えばさっち山と言う人がある。まあとにかく親が山ち言うと、川ち言うその親不孝の人がおった。ところがその親がなくなった。その時に始めてその時分が親不孝をしていたことに気付きましてね、そのまあ後悔ををする。親がなくなるときに山に、行けてもらいたいと思うた。
そこで是が山というと必ず川と言う事じゃいかんからと思うてから川のほうに逝けてくれちいうてから死んだち。もう最後の親の一言位は聞かにゃいくまいち言うてからほんなこて川に、川に逝けたという笑い話がある。( ? )もう死ぬときに本当に私が悪かったと、詫び合うていくと言う様な場面がありますよね。私は信心とはね、死んでいく成程死んでいく時には詫びれると言う事は尊い事なんですけれどもね、私共信心させて頂くものは悪い事があるなら生きて折る内に詫びとかなければ。
元気な内にね。お礼を言うならばです、私生きておる内にお礼を言う事を教えて頂く、またはそれを分からせていただく事が信心だと。昨日、私と家内との問答はそれこそ足をもんでもらいながらね、みんなが本当に私がごたる女子をお父さんがもろうて頂いた、おかげで私のいうなら、母親やら姉達と同じ様な性根をもっておっとった私がです、おかげでここまでお育てを頂いたとこういう。私もまた申しました。けれどもどんなに考えてもね、これは他の女子じゃうちはつとまらじゃったというわけ。
お前でなければ出来なかった。その上でやっぱりあなたでなければ出来なかったというわけなのです。心に思うておって口に現せないでおるというのではなくてですね、それが本当にお礼が言えれる、お詫びがし合えれるね、そういう私はいわゆるおかげを頂いて行く事が信心だとこう思うですね。天地は流行る事もなく終わりもない。だから限りなく進展を続けていく。限りなく繁栄の道を辿っていく。おかげを頂かなければならない。為には私共一人一人がそういう繁栄の道に繋がる土台を作らなければいけない。
しかもその繁栄の土台がです、大きくいうなら世界中に繋がっておるものでなからなければならない。私がおかげを受けたということがです、それがやはり自分の周囲の縁のある人ごとにです、いうなら、光であるなら光を放っていき、力があるならその力を周囲にのこしていくと言う様なそういう働き。どうぞ神様私の助かりがどうぞ世界中の氏子の助かりに繋がるようなおかげを頂かせて下さいというのが私は金光様の御信心のお互いの願いの中心でなからなければならんと思う。
どうでも私の家だけが繁盛しますようにと言った様なものではなくてですね、私そういう信心をです、私が頂きそれを子供に孫に伝えていけれるところにですね、いわゆる代勝りのおかげ、日勝り、月勝り、代勝りのおかげを頂いておると思うのです。皆さんが願っておられることがどうぞこの事が成就致しますように、この事がおかげになりますように。なるほど結構ですね。痛ければ痛いところをさすってもらい、痒ければ痒いところも掻いてもらうような願いもまた、結構ですけれども。
段々、神様を信じる事が出来れるいわゆる、信心です。ならばその神様を信じることの出来れるその信じる心をもってです、日々の信心真心が出来ていかなければならんね。その真心が育っていく、次に信心である。神心であるね。いうなら商売敵である相手のことを祈らせて頂くほどしのおかげである。敵と思うておった人がお礼が言えれるほどしの心であるね。そういう心が段々育っていく、私は信心をさせて頂いておるならばです、絶対子供がついて来ない筈はないと思うのです。
家の親父は信心するばってんから本当に、わがこつばっかりと商売繁盛なら商売繁盛の事だけしか願わんと言った様な信心がその、何とはなしに現れてくるのですから信心が、子供がようついてこない。いわんでも語らんでもよい。本当に例えば私共の信心がです、助からなきゃならん、もう絶対助からなければいけん。けれどもその助かりがねいわばね、周囲の助かりに繋がっていかなければね。いうならば私の願いが合楽の願いが世界中の人間氏子の上に広がっていくほどしの願いを持っての信心。
そういう信心がですなされるその信心を私はいよいよ強化なもの本当なものにしていくところにいわゆる天地日月の心になること肝要なりね。と言う事。天地日月の心と言う事はです、昨日は山と川との合言葉と言う様な意味合いを申した。そこに攻め合いがない。いうならば同士討ちのないおかげが頂かれると思う。いわゆるただでする修行買ってする修行というような修行が出来ていく。そこのところに楽しみが感じられるありがたさが感じれれるおかげ。
そこから凄まじいまでのおかげを現して下さる。頂かせて頂けれる所のおかげからです、いよいよ神恩報謝の心というものが強くなっていくばかりね。いわゆる神恩報謝の心がどうなっていくかというとです、家にはジッとしておられんという心が躍動してくる。喜びで一杯に成って来る。それがお礼参拝をさせて頂かなければおられないと言う所までのおかげを頂いていない所までです、親の代は確かにおかげを受けた。
けれども、子供の時代孫の時代にはそれが反対の事になっておると言った様な事になっておるのではなかろうかと思います。なるほどこの神様はね、願えばおかげを下さるのです。信心が今日私が申しましたようなところを辿らなくてもね、ですからそういうおかげを頂きながらです、今日私が申しますようなところを踏まえての信心が段々私のいうならば、助かりが世界中の助かりに繋がるほどしの助かりを頂かせて頂きたい。いわゆるマイホーム的なことがいけない。
只マイホーム的に終始したり腰掛けたりしておるところに成程、熱心に参るそれは修行もできる。だからおかげも受ける。けれどもそれが子に伝わらない、孫になおさら伝わらないということになってくるようにおもうのです。金光様の御信心だからね、天地日月の共に極まりなく繁栄発展していくとは限らないね。教祖様がいわゆる実意丁寧神信心という事をお道の信心のいわば筋金のようにおときになっておられます。その実意丁寧神信心こそがです、私は天地日月の心になることだと思います。
総ての事に実意をもってね、丁寧に頂いていこうという生き方。しかも神信心である。ね。天地日月の心になること肝要なり。だからここのところをしっかり肝要だと仰せられるところを身につけていく信心を頂きたい。信心はせんでもおかげはやってあると最後に、これは、なるほどいきとしいけるものに天地の御恩恵なしには生きていかれんのが私共。その根本のところを教えておられると思う。信心をすると言う事はまずそこに気がつかせて頂く事だ。
はあ本当に自分は信心がなかったけれどもね、いうならば天地の御恩恵の中にあって今日があったのだということがわかるところからね、私は信心がはじめられると思う。そこのところを教えておられるのだろうと思います。信心はせぬでもおかげはやってある。ところが信心がないとそれをおかげをおかげと分からないところに感謝の心が湧いてこない。信心させて頂くものはそこが分からせてもらい、だから詫びるところは詫びなければ何十年間といういうならば。
天地に対するところのお粗末御無礼というものがまず、詫びられる。そこからお礼の生活が始まる。同時にそのお礼の生活のない様が。天地日月の心になると言う様な信心が生活の上に頂けてくる。信心が段々高度なものになってきて、私の助かりが世界中の助かりに繋がるほどの祈り願いというものが出来てくる。そういう信心が頂けて逝く限り私は必ず子にも孫にも伝わっていく。昨日家内と話しました中にもう、家の子供たちが七人おるけれども、もうどれというてその取り得のない息子ばっかり。
頭も良いこともなからなければ器用が良い事もない。けれどもやはり一人一人の性格を頂いておる。それを見てみなさいお母さん、長女は長女長男は長男もう一人一人がそれでなからなければならんといったような御用にお使いまわしいただいておると言う事実をみても、子の子はこげな性格だからこげな風にさしょうと言うたわけではないけれども、神様をおかげを下さっておると言う事が有難いなあというて、まあ申した事でした。だから決して頭が良ければ器量がよいというわけではない。
神様のおかげを頂かなければそれが、すさまじいまでの働きがです、やわらかに一人一人の子供達の上にまで、その働きが頂けれるのが私は信心だと思う。親の頂いておる信心が何時の間にか染みこんでいくというおかげね。私共の三男が去年の暮れから、私と一緒に3時過ぎに起きて、私と一緒にここへ出てきてくれます。一緒に御祈念をしてくれます。何も言う事もなからなければ語る事も入らない。親の信心をひた受けに受け様一生懸命に信心しておる。
二番目の息子がね、この人ばっかりはどげんなるじゃろうかと思いよった。高校時代はところが、もうこの人じゃないといかんというようにね、丸少の少年少女会のリーダーとしてもう本当に皆からとにかくリーダーリーダーと慕われるくらいにおかげを頂いておる。合楽の少年少女会が発展するのはまあ、光昭がしっかりやるからだと言う風に皆さんが言うて下さるほどしのおかげを頂いておる。例えばならこの若先生がそうですね。本当に別に取り柄はない、とにかくちっとずぼら方ではあるけれども。
まあおかげを頂いて朝の御祈念、朝の五時の御祈念だけはそれこそもう、足が破傷風でもう這いも立ちも出来ないほど、ハイハイしながらでもこれだけは貫いてくれている。これだけはちゃんとやりゃなと言うた事はないこれは。娘達の上においても一人一人のこれは言う事が出来る。だからどうぞ一つそういう私はあの、家庭の上にもおかげを頂いてね、一念と言う事は矢張り願うたから頂いたというおかげではなくてです。
これは願わずに神様の凄まじいまでの働きがやんわりと子供達の上にもそういう働きかけを下さっておるからだと思う。成程これなら私の代よりも子供の代と言う様に信心が伝わっていくであろう。そこには末広がりのおかげになるだろうというまあ感じがするのですね。親の代はあのようなごひれいを頂いたという教会は沢山あります。けれども、子供の時代になったらばったりというそれをただね。
一生懸命に願ったり縋ったりしておかげを受けたけれども、今日私が申しますようなところが出来ていなかったからではなかろうか。おかげが互い違いになっていきよる。山と川との合言葉が本当に出来ていない。天地日月の心になる事肝要なりと仰せられるその肝要のところが、喪失になっておったような感じがするのです。これはまだ分かりません。私が一生でない、私がなくなってみなければ分かりませんけれども。
そんな風なものであります。どうぞ金光様のご信心がね。天地と共にきわまりなく発展するのではないね。教祖様の教えておられるその天地日月の心になる事肝要なりという信心が本当に身に付いてこそ、まあそれをいうならば私の本当の助かりが世界中の助かりにつながりを持つほどしの願いが出切れるだけの信心を頂く時に天地と共に極まりのないほどしの発展とおかげが約束されると思うのでございます。
どうぞ。